起業のきっかけ
もともとパン作りは趣味として続けていて、家族や勤めていた会社の同僚にふるまって喜んでもらえるのが嬉しくて楽しんでいました。息子が小さい頃、肌が弱く体調を崩すことも多かったことから、健康によい食事を探すなかで、グルテンフリーの「米粉」を知りました。米粉でパンを作ってみると、膨らみにくくパサつきがち。当時はまだ米粉のパンがあまり普及しておらず、レシピもほとんどありませんでした。やがて子どもが成長して生活が落ち着くと、当時は米粉パンの教室がなかったので、小麦粉のパン作り教室に通いながら、独学で米粉のパンやお菓子作りにのめり込んでいきました。
そのうち、会社の業務や責任感が増してストレスフルな状態となり、夫に相談すると「好きなことを仕事にすればいいんじゃない」とシンプルな回答が返ってきました。それを聞いて、「私が好きなことはパン作り。せっかくなら体に良くて美味しい米粉パン作りを仕事にしたい」と心が決まったんです。
起業する前にパン屋の仕事をひととおり学びたくて会社を退職し、地元のパン屋さんで3か月間、アルバイトを経験。その後、私が自宅で試作した米粉シフォンケーキを気に入ってくださっていたヨガ教室の先生から、「ヨガ教室の生徒さんにもぜひ米粉シフォンケーキやパンを食べてほしいから、うちで販売や教室をやってもらえないか」と声をかけていただき、スタジオの一角で販売やパン作り教室を開催することになりました。これが起業のきっかけとなり、自宅でオンライン教室も始め、米粉パンやお菓子のケータリングの仕事もするようになっていきました。
当初は米粉パンの発酵種にはドライイーストを使っていましたが、日持ちせず風味もいまひとつ。「もっと美味しいパンにできないか」と悩んでいたところ、知人からお米の麹から作る酒種(さかだね)酵母を教えられて、その美味しさに驚きました。麹の力でうまみや甘さが素材から作り出され、自然にバランスの良い味わいになるんです。それからは麹の魅力に取り付かれ、麹の教室に次々に通いました。
そして、ある麹作り教室で出会ったのが「黒麹(くろこうじ)」です。黒麹は沖縄発祥といわれ、お酒や味噌作りに使われる一般的な黄麹に比べ、市場に出回ることが少なく、とても希少な麹です。クエン酸を多く含むため、疲労回復や防腐効果が高く、胃腸の働きも改善してくれます。私が理想とする「健康に良く美味しいパン」を作るための麹、まさに最高の発酵種との出会いでした。それからは、麹を作る製麹(せいぎく:麹を作ること)を学び、自家製の黒麹を使ったパンやお菓子作りに活かしています。現在は、黒麹を学び伝えるための「黒麹研究家」としても活動しています。
起業当初は自宅やレンタルキッチンで事業を行っていましたが、だんだんと手狭になってきたため、教室や製造拠点となる工房を開くことにしました。本格的な工房を構えるにあたり、ISICOや地元商工会に相談しながら、オーブンなどの機材購入の資金として、「小規模事業者持続化補助金」を活用しました。約3か月間の準備期間を経て、2023年3月、賃貸アパートの1室に工房をオープン。2024年1月からは、それまでの米粉パンやお菓子作りの教室に加え、黒麹・黄麹作りとこれらを使ったパンやお菓子、化粧品作りが学べる「黒麹カフェ大學」を開催しています。
大変だったこと
イベント販売やパン作り教室を始めたときは、ヨガの先生の豊富な人脈のおかげで集客の苦労はあまりありませんでした。ところが、いざ自力でやってみると、SNSなどに投稿しただけではなかなかお客様は集まりませんでした。米粉パン作りやその美味しさには自信があっただけに落ち込みましたね。「健康ブームだから、米粉パンは健康意識の高い人にニーズがあるだろう」と安易に考えていた自分の甘さに気づきました。
そんなとき、SNSのコンサルティングをしている方から、「人に伝わる」ための様々な手法を教えていただきました。写真の投稿で文字を工夫したり、動画やライブ配信で自分の親しみやすいキャラクターを設定したりと、自分自身が楽しみながら、見てくださる方も楽しくなるような広報活動をしていくうちに、だんだん集客も伸びていき、イベント販売の売り上げも安定していきました。
とはいえ、起業当初は何事も一人でやらなければならず、初めてのことばかりで辛かったですね。また事業の将来の方向性や、今後何をどう進めればいいのか、わからないことばかり。そんなとき、あるデザイナーさんにショップカードを制作してもらうことになりました。ところが、カード作りにあたってコンセプトや方向性を質問されても、うまく返答することができなかったんです。ブランディングが全く固まっていないことに気づき、唖然としましたね。それ以来、その方にアドバイスを受けながら、「本当にやりたいことは何なのか」「何を目標として目指すか」をとことん考えて整理することができました。
活動拠点となる工房を開設すると、教室や販売・イベント出店と、どんどん作業が増えていき、一人でやることに限界を感じて「分身がほしい」と思うようになりました。人件費をちゃんと確保できるのかという不安はあったものの、まずはやってみることに。私のパン作りや食に対する考えや思いを共有できる人でないと一緒にやる意味がないので、これまで開催してきた教室の生徒さんの中から声をかけて来ていただくことにしました。結果的に作業効率が格段にアップし、売り上げも向上。人を雇うことに対する不安も解消され、何より“すべて一人でやる辛さ”から解放されてすごく助かっています。
もともと自分は完全に計画を立ててからではなく、思い立ったらまず行動するタイプ。「わかんないけど、まずはやってみよう。やってみてダメだったら修正すればいい」と。これまでの行動も全部そんな感じです(笑)。慎重に考え過ぎるとマイナス面ばかり浮かんでくるので、自分にはこのスタイルが合っていると思います。
コンセプト・強み
「健康になり、そして美味しいもの」を提供したいとの思いから、教室で作るものや販売するものはすべて無添加・白砂糖不使用。さらにオーガニックな野菜や果物を使用しています。水と自家製麹との相性がとても大切なので、使用するお水もいろいろ試してこだわっています。厳選した素材で作ったパンやお菓子はとても風味豊かな味わいが生まれ、舌の肥えた同業の先生方にも「美味しい」と言っていただけるのが嬉しいですね。
麹は通常、プロの職人が作ったものが販売されていますが、私は自ら麹の原材料から厳選し、手作りで製麹しています。麹を手軽に作ることができて、しかも簡単で美味しいお料理やパン、お菓子、そして化粧水などに活用する作り方をお伝えしています。美味しいものを食べるととても幸せな気持ちになりますね。麹を通して大切な人たちが明るく元気になり、そして幸せを感じてもらえること。それは「心と体の健康」につながるものと考えます。心から安心できる素材で、しかも美味しくて体も喜ぶ。ぜひご家庭でも麹を身近に感じて、そして実践して欲しいですね。
工房では、米粉パンやお菓子作りの講師認定教室や販売目的の商用教室を各種ご用意しています。3~4人の少人数制を取り、丁寧に指導していますので、質問などもしやすく和気あいあいとした楽しい雰囲気だと好評です。レッスン後の教室開講サポートやSNSの活用、イベント出店のノウハウをお伝えする様々なコンサルティングも行っていますので、起業を考えている方、プロの方の受講も多いです。
起業前は、ある製造メーカーの社員として約20年間、いろんなことを学ばせていただきました。取引先との交渉術や誰が見てもわかりやすい資料作りの方法、大勢の人前で話す際の表現方法、社員の教育係として…これらの経験すべてが自分のスキルとして今、大いに活かされています。私はうっかりしたところがあるので、この経験がないまま起業していたら、すぐにダメになっていかもしれません。今となっては当時の会社に感謝しかないですね。
やりがい
工房ではどなたも安心して食べていただけるものを提供しています。それこそ、自分の家族にぜひ食べてほしいものを作っています。そうした当工房ならではの食体験や作り方のノウハウをお伝えして、お役に立てていることが嬉しいです。素材のオーガニック野菜も規格外で廃棄せざるを得ないものを使うことで、社会貢献につなげています。自分でミッションを決めて動き、やりたいと思ったことはなんでもチャレンジできる。そしてそれがお客様の反応となって、すぐ自分に返ってくる。会社員時代には得られなかった大きなやりがいを日々実感しています。
教室や販売を通して、人とふれあい、直に感想を聞ける仕事だからこその充実感もあります。麹には腸内環境を改善する働きがあり、お通じが良くなったり、免疫力がアップしたり、お肌がきれいになったりと良いこと尽くしですが、さらに「脳腸相関」といって、腸が整うと脳のストレスも緩和されるといわれています。教室にいらした生徒さんたちと一緒にワイワイ話しながら、作って、試食して、リフレッシュして帰っていかれます。「嫌なことがあったけど、ここで忘れてしまいました」と言ってくださることも。この仕事を通じて、人の体だけでなく心も安定させることができる、としみじみ感じます。当工房が、人とのふれあいの場として元気になってもらえる「パワースポット」になればいいなと思っています。
今後の展開
「麹」は知れば知るほど奥深く面白い世界。今後はさらに歴史や背景まで幅広く学び、“麹の根っこ”を知りたいですね。特に、「黒麹」はより深く探求したいですね。それは私の人生のテーマのひとつと考えています。その素晴らしさを多くの人に知っていただき、健康で安心な暮らしに役立ててほしいとの思いでスタートしたのが「黒麹カフェ大學」です。現在は家庭で麹を楽しむ教室のみですが、いずれは麹作りのプロ育成教室を作る予定です。
また最近、注目するようになったのが、サツマイモとお米のみで作る発酵飲料「ミキ」です。「ミキ」は奄美や沖縄などで伝統的に作られているもので、神様に捧げる「お神酒(おみき)」に由来しています。全国的にはまだあまり知られておらず、黒麹と同様、レア好きな私はどうしても惹かれてしまうんです(笑)。独特の酸味と素朴な風味が魅力で、アレンジドリンクを作ると面白いのではと。近い将来、作り方教室や販売にもつなげていきたいと考えています。
5年以内には、麹を使った料理やお菓子を提供するカフェ、パン・お総菜の販売コーナー、レンタルキッチンを併設した施設をオープンしたいですね。麹は今、世界のトップクラスのレストランで使われ、海外からも注目の的なんです。インバウンドも活気づいているので、日本はもとより世界の人たちに発信するスポットになれば理想的です。
message/ 女性先輩起業家からのメッセージ
profile/ プロフィール
あきこめ工房。: 伊藤 亜希子さん
能美市出身。福井大学教育学部卒業後、金融機関や製造メーカーで約20年間働く。会社員の頃、幼少期に肌が弱かった息子のために、グルテンフリーの米粉パンやお菓子を作り始める。2021年に退職し、自宅での教室やレンタルキッチンでの製造、イベント販売をスタート。オンライン教室やケータリングも手掛ける。やがて、天然の米麹で作る「酒種酵母」「黒麹」を取り入れた米粉パンやお菓子の販売、教室を開催。黒麹の良さを広く伝えようと「黒麹研究家」として活動し始め、2023年3月に教室と食品製造の拠点となる工房を開設。2024年1月から手作り麹のノウハウを教える「黒麹カフェ大學」を開講している。
※2024年度取材
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